藤田政博
コンプライアンス部門の責任者が、年度末に研修の実施記録を振り返っているとしましょう。年に三回の集合研修、eラーニングの受講率は九十八パーセント、研修後テストの平均正答率は九割を超えている。数字だけを見れば、組織の構成員はコンプライアンスの基本をよく理解しているように見えます。ところが、その同じ年度の通報窓口には、前年とほとんど変わらない件数の相談が寄せられている。あるいは、内部監査で指摘される事項のパターンが、三年前とほぼ同じ顔ぶれで並んでいる。
この風景に覚えのある方もいらっしゃるかもしれません。
こうした状況に直面したとき、まず思い付くのは「研修の内容を改善しよう」ということです。教材をもっとわかりやすくする、事例をもっと身近なものに差し替える、グループディスカッションを取り入れて双方向性を高める。いずれも真っ当な工夫ですし、それによって研修効果は上がるでしょう。けれども、もう少し立ち止まって考えてみると、ここには暗黙の前提があることがわかります。
「知れば行動する」という前提を疑う
その前提とは、「正しい知識を得れば、人は正しく行動する」というモデルです。知識が足りないから問題が起きる。だから知識を補えば正しく行動し、その結果、問題が減る。研修の改善努力のほとんどは、この「知識→行動」という線の上で行われています。多くの組織がこの前提に沿って考えるのは、とても自然なことです。教育の基本がそこにありますし、私たちの日常的な直感にもよく馴染みます。
けれども、行動科学の知見は、この線形モデルがかなり限定的な条件でしか成り立たないことを繰り返し示してきました。
たとえば、ある行為が倫理的な問題を含んでいるかどうかを判断するためには、まずその場面を「倫理に関わる場面」として認識する必要があります。これは当たり前のことのように聞こえるかもしれません。しかし、ハーバード・ビジネススクールのMax Bazermanや、ノートルダム大学のAnn Tenbrunselらの研究が示してきたのは、人は状況的な手がかりによって、倫理的な認識そのものが「フェードアウト」する——つまり、意思決定の場面から倫理的な次元が透明になって消えてしまう——という現象です。「ethical fading(倫理の退色)」と呼ばれるこの現象は、知識の不足とはまったく異なる水準で作用します。
言い換えると、研修で教えた知識が「存在しない」のではなく、判断の瞬間に「起動しない」のです。
この違いは、実務において非常に大きな意味を持ちます。知識が「ない」のであれば、研修で補うことができます。しかし知識が「起動しない」のであれば、いくら知識の量を増やしても、起動しない構造そのものは変わりません。
知識が「起動しない」瞬間に何が起きているのか
では、具体的にどのような状況で知識は起動しなくなるのでしょうか。もう少し丁寧に見てみると、いくつかのメカニズムが重なり合っていることがわかります。
一つは、場面のフレーミングの問題です。研修の中では「利益相反が疑われる場面ではただちに報告してください」と教わります。この知識は、テストの問題文という形式で提示されれば、正しく再生できます。ところが、実際の業務の中で利益相反的な状況が生じるとき、それは「利益相反」というラベルを貼って現れるわけではありません。たとえば、長年の取引先との会食の席で、先方からちょっとした便宜の申し出がある。その場の空気は「関係維持」や「信頼構築」というフレームで満たされています。参加している上司が「まあ、このくらいは付き合いだよ」と笑う。このとき、その場面を「利益相反」として認識するための認知的なスイッチは、きわめて入りにくくなっています。
ここで作用しているのは、単に「知識が足りない」ということではありません。むしろ、その場の文脈が発する手がかり——上司の態度、場の雰囲気、長年の関係性——が、「これは倫理的な判断が求められる場面である」という認識そのものを覆い隠してしまうのです。
さらに興味深いのは、時間圧や業務負荷がこの効果を増幅するという点です。四半期末の忙しい時期に、納期に間に合わせるために品質チェックの手順を一部省略する。その判断がなされる瞬間、担当者の頭の中では「コンプライアンス上の問題」ではなく「効率的な業務遂行」というフレームが優勢になっています。研修で学んだ知識は記憶の中にあるはずですが、その瞬間の認知的な資源は「どうやって納期に間に合わせるか」に集中的に配分されていて、倫理的な認識が割り込む余地がほとんどないのです。
ある企業のコンプライアンス体制の見直しに関わった際、研修後テストの正答率が九割を超えているにもかかわらず、同種の問題が繰り返されているという資料を見たことがあります。詳しく調べていくと、問題が発生していたのは、いずれも業務負荷が高く、チーム内の上下関係が強く、かつ判断に時間的な猶予がない場面でした。知識の有無ではなく、知識が起動するための条件が、業務環境の中でことごとく欠けていたのです。
また、同調圧力が、倫理的な判断の「閾値」を変えてしまうこともあるかもしれません。周囲の人が同じ行為を当たり前のようにしていると、それが問題であるという認識の感度が下がります。これは意志の弱さの問題ではなく、人間の社会的認知の基本的な特性です。組織の中で「みんなやっている」という認識が一度形成されると、個々人がいくら研修でルールを学んでいても、そのルールを適用すべき場面だという認識自体が変化してしまいます。
こうして見てくると、「知識→行動」モデルがうまく行かないのは、知識の質の問題でも、個人の意志の問題でもなく、知識が起動するかどうかを左右する「状況の構造」の問題であることがわかってきます。フレーミング、時間圧、集団規範、上下関係——これらは単独で作用するというよりも、互いに絡み合いながら、倫理的認識のスイッチを連鎖的にオフにしていく。一つの原因を取り除けば解決するという種類の問題ではないところに、この問題の難しさがあります。
このように考えると、「研修をもっと工夫する」という方向性だけでは、問題の構造に届かない可能性があります。もちろん、研修は重要です。知識の土台がなければ、そもそも起動させるものがないのですから。しかし、知識を提供する仕組みとは別に、その知識が現場で起動するようにする仕組みが必要になります。
この構造が見えてくると、対処の方向性を考えることができます。ただ、どの方向が適切かは、その組織の中で「知識が起動しなくなっている場面」がどこにあるのか、そこにどんな状況的要因が重なっているのかによって異なります。外部の知見だけでは見えない部分がありますし、組織内外の人が丁寧な共同作業をすることで初めて、状況の輪郭が浮かび上がってくるでしょう。
研修の回数を増やすことでも、教材の質を高めることでもなく、「知識が行動につながるための条件」を組織の中に設計していくこと。それがどのような形をとるかは、組織ごとの文化や業務の流れ、問題が表面化してきた経緯によって異なるものですし、一つの正解があるわけではないのかもしれません。けれども、少なくとも、問題の所在を「研修の質」から「知識が起動する状況の構造」へと移すことで、見える景色はずいぶん変わってくるのではないかと思います。
藤田政博
