CEO詐欺はなぜ「真面目な社員」を狙うのか

藤田政博

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「騙されやすい人」という幻想の向こう側

経理部門で十五年のキャリアを持つ、担当者がいたとしましょう。社内では堅実な仕事ぶりで知られ、上長からの信頼も厚い。コンプライアンス研修には毎年欠かさず出席し、テストの点数もいつも高い。その人が、ある朝届いた一通のメールをきっかけに、数千万円の送金処理を行ってしまいます。送金先は、実在しない口座でした。

事後の調査報告書には、おそらくこう書かれるでしょう。「当該担当者の確認手続に不備があった」「メールアドレスの微細な相違に気づくべきであった」と。そして再発防止策として、注意喚起の強化と研修の追加が提案されます。

この対応は、多くの組織がごく自然にたどる道筋です。けれども、もう少し立ち止まって考えてみると、ここにはひとつの前提があることに気づきます。それは、「騙される人には、騙される理由がその人自身の中にある」という前提です。

注意喚起は、なぜ効かないのか

2025年の特殊詐欺被害額は約1,414億円にのぼり、前年のほぼ倍に達しました。注目すべきは、被害者の年齢層が大きく広がっていることです。20代・30代の被害が急増し、いわゆる「ニセ警察官」詐欺では若い世代が主要なターゲットになっています。企業を狙ったCEO詐欺(ニセ社長詐欺)も国内6,000社以上に偽メールが送られ、深刻な被害が報告されています。

つい先日、私が代表をしている組織でも、私の名前を騙って役員にメールが回って驚いたことがあります。「今後はLINEで連絡するからこのQRコードから友達登録するように」というものでした。うっかり友達登録した人がいたら、そこから詐欺の被害に遭ってしまいます。この組織は小さい組織で、私と役員との距離が近かったので騙される人はでませんでしたが、もしこれがもっと大きな組織で代表と役員の距離が遠ければ、うっかり登録する人がでてきてもおかしくはありません。

これらの事実が示しているのは、「注意が足りない人が騙される」という説明では、もはや現実を捉えきれないということです。情報リテラシーの高い若い世代も、経験豊富なビジネスパーソンも、同じように被害に遭っている。研修を受けた人も、受けていない人も、差がほとんどないという調査結果すら存在します。

多くの組織が詐欺対策として「注意喚起」と「教育」を柱に据えるのは、とても理解できることです。情報を与え、意識を高めれば、人は合理的に判断できるはずだ——そう考えるのは自然なことです。けれども、心理学の研究が明らかにしてきたのは、この前提そのものの危うさです。

詐欺脆弱性認知に関する研究では、「楽観バイアス」が一貫して確認されています。人は、自分が詐欺の被害に遭う可能性を、他者のそれに比べて著しく低く見積もる。興味深いのは、この傾向が、詐欺についてよく知っている人ほど強まることがある、という点です。「自分は手口を知っているから大丈夫」という確信が、かえって警戒を解いてしまう。注意喚起や教育は、知識を与えると同時に、「知っている自分は安全だ」という楽観を強化してしまう可能性があるのです。

つまり、対策を打つことによって詐欺に対して脆弱になっていくことがありうる。これは皮肉な構造ですが、研修を設計する側にとっては、見過ごせない問題ではないでしょうか。

組織が「従順さ」を育てるとき

もう少し丁寧に、この問題の構造を見てみましょう。

CEO詐欺のシナリオを業務の流れに沿って追ってみます。まず、社長の名前で「至急」「機密案件」と記されたメールが届きます。受信した担当者の認知には、この時点で二つの力が同時に作用します。ひとつは「権威」の手がかりです。人は、権威ある人物からの指示に対して、その内容を精査する前に従おうとする傾向を持っています。社会心理学ではこれを権威への服従と呼びますが、名前をつけるまでもなく、組織の中で日常的に経験していることでしょう。もうひとつは「時間的切迫」です。「至急」という一語が、通常であれば踏むはずの確認ステップを省略することに心理的な正当性を与えます。

ここで注目したいのは、この二つの力が、日頃のコンプライアンス教育で推奨されている行動様式に近いということです。多くの組織では、上位者の指示には迅速に対応すること、機密情報の取り扱いには慎重であること(つまり、むやみに周囲に相談しないこと)が求められます。真面目で組織への忠誠心が高い担当者ほど、「社長からの緊急かつ機密の指示」に対して、疑うことなく迅速に動いてしまう。そして、「機密」とされているがゆえに、隣の席の同僚に「こんなメールが来たのだけれど」と声をかけることすら躊躇します。

さらに、もう一層の構造が重なります。送金処理が完了したあと、担当者の中では「認知的不協和の低減」が起こります。「お金を送った」という認知と「その送金は間違っていた」という認知が同時に生じ、心が苦しくなり、それを鎮めようとします。ただし、「お金を送った」という事実は取り消せません。

そこで、自分の行動を振り返って「まずかった」と思っても、「社長の指示だったのだから正しかったはずだ」と考え直して「その送金は間違っていた」という認知を変えてしまいます。この心理的プロセスが、被害の発覚を遅らせます。そして組織全体の事後検証の段階でも、「担当者の確認不足」という個人帰属の結論に落ち着きやすい。なぜなら、「組織の服従文化が原因だった」と認めることは、組織の根幹に疑いを向けることになり、それは心理的にも制度的にもコストが大きいからです。

こうして、問題の構造的な原因は温存されたまま、次の被害の土壌がつくられていきます。

この問題が厄介なのは、単一の原因に帰着できないところにあります。楽観バイアス、権威への服従傾向、時間的切迫による認知資源の枯渇、組織文化が育てる従順さ、認知的不協和の解消——これらが独立に存在しているのではなく、互いを強化し合いながら、ひとつの脆弱性の構造を織り上げている。そしてその構造は、個人の「注意力」を上げる努力をしても、本質的には変わりません。

この構造が見えてくると、対処の方向性はいくつか考えられるようになります。ただ、どの方向が適切かは、組織の規模や文化、意思決定プロセスの実態、問題がどのような形で表面化してきたかによって、かなり異なります。

「研修を増やす」という次元とは別の、意思決定の仕組みそのものに光を当てる視点が求められるのかもしれません。そしてそれは、外部の視点だけでは見えない部分——日常の業務の中で、どのような指示がどのように流れ、どこで確認が省略され、どこで疑問が飲み込まれているか——を、組織の当事者とともに丁寧に見ていく作業を必要とするように思います。

「騙されやすい人」がいるのではなく、「騙されやすい状況」を構造的に生み出してしまう力学がある。その力学の一部は、組織が善意で育ててきた文化の中にも潜んでいる。そのことに目を向けることが、おそらくは出発点になるのだろうと思います。

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